皆様こんにちは!神奈川支店のカキヒサです!
そういえば、イベント21に入社してしっかりと自己紹介をしたことがなかったので、
せっかくなので、書いて
もくじ
幼稚園のころまで
1986年7月7日 神奈川県鎌倉市に二男として生まれる。
家庭と分け合って連携が取れていないため、結婚式のプロフィールビデオをスクリーンショットしています(笑)
七夕生まれなので、結構周りから誕生部覚えられやすいですね!
なにげに福岡森田も七夕生まれらしいですね。
七夕あるあるでいうと、大体その日は雨が曇りなので、
織姫と彦星は会えないです。。。
七夕誕生日の事はおいておいて
幼稚園のシンデレラの劇では、時計役Bを担当したりと、
立ち位置的に中心から端っこにいる立ち位置でした。
もうね、時計約いてもいなくても変わらないんスよね笑
めちゃくちゃ泣いてますね笑。多分担任の江畑まゆみ先生と別れたくなかったんだと思います。
名前まで今もなぜか覚えています(笑)
小学生~中学生時代 サッカーが苦手な少年
小学生は父親の影響でサッカーをしていました。
そうなんです、父親はサッカー小学生のサッカーのコーチでした。
父親が少年サッカーでボランティアでコーチをやっていたのですが、このサッカーのせいでカキヒサ家が揉めていたのは今でも忘れません。
僕は運動神経が悪く、あまりうまくありませんでした。サッカーの試合ではベンチが多かったので、試合ではなく、よく蟻を観察していました笑
時折出る試合は、6年生の時に4年生に扮して出ていたので、もう何が楽しいのか覚えていません。。。
最初は、母親もサッカーの試合を見に来ていたのですが、試合でベンチに座って蟻を捕まえている息子を見てて楽しいわけがないです。
あるとき、母親と父親がケンカをしていました。
母:なんで試合だしてあげないの!自分の子供でしょ。
父:勇はサッカーが下手だから、試合に出すと負ける!だから出せない!!
もうね、何が辛いって本人の目の前でその話をするかねっていう!笑
でも、サッカーをやめなかったのは、メチャクチャ面白い友人たちや、先輩がいたからです。
毎週放課後は一緒に遊んでいて、学校帰りにまっすぐ家に帰ることはありませんでした。
なので、サッカーをやめたらその輪から外れてしまうのではないかなと思っています。
いまでも友人たちとは隙をみて、遊びに行きます。
大人になってから遊びに行くのも、小学生時代の友人がほとんどです。
中学では友人たちがサッカー部に入ったので、しぶしぶサッカー部に入部をしつつ、
ひょんなことからギターを弾き始めました。
高校時代~専門時代 暗黒期の前触れ
そして高校はみんなと違う学校にいったので、サッカー部は即やめて、軽音楽部に入部しました。。
歌っている首の角度からを察するに、布袋寅泰の【POISON】のサビを歌っている所なはず笑
くーちーづーけーでそーそーぐせーつーなーさーは、、、
高校2年生にはまだまだよくわかんないお話です。。。
ギターをもっと弾いていたいのと、勉強をあまりしたくないという理由で、
ギターの音楽専門学校へ行きましたが、
ここから人生は失敗に繋がります。簡単に言うと東京という環境に馴染めず、
友達がゼロ。人生をやり直せるなら、ゼッテー専門学校には通ってないです笑
バイト時代 レストランバーでの学びと失恋
その一方でバイトだけはとても楽しかったです。
飲食店でお蕎麦屋さんから、レストランバーでバイトをしているときに、
当時のレストランバーの店長のAさん(当時30歳)が超怖かったです。
見た目は素敵な選TAXIの竹野内豊さんばりに見た目がダンディーでした。
当時20歳で、
今まで自分が頑張っていたことが、全く通じていなくて、ものすごく怒られました。
ただ、あとあと考えるとすべて正しいことを言っているのです。
お酒を飲んだお客様への対応、上下関係、ちょっとしたユーモア(シェイカーの中に炭酸を入れて遊ばせたりとか笑)
でも後々考えると、割とここでめちゃくちゃ良い経験ができました。
1年半ほど、一緒に働いていましたが、自分で店を持つためにお店をやめると言われ、
最終日はめちゃくちゃ泣きました。
お客様からお酒を振る舞ってもらっている店長は、最後にぼくに向かって
【カキヒサ、お前はまだ若いんだから、何やっても、失敗しても大丈夫だから!】
そうはいってもこの先どうしていこうかと思います。
そこからは、少し刺激が減って来ています。
その時に高校時代の気になる女子が、平塚でコンビニバイトをしているので、
鎌倉から、原付で平塚までコンビニに通い(45分)バイトもしていました。
花火に一緒に行けたものの、告白をしたらあえなく玉砕笑
手を繋ごうとしたら、拒否された時点から気づけばよかった~。
なんで花火に一緒に行けたのに、振るのさ!!
・・・ひと夏の恋を会社の人事ブログに書く内容ではないですね笑
さて、ほそぼそと専門地代から続けているバンド活動では、あんまりライブもせずに、
ただただスタジオに入って、ご飯をみんなで食べて遊ぶ日々に刺激もやる気もなかったです。
ある時、風のうわさで、
『スターホテルのブルーライトバーでA店長が修行しているらしいよ!』
とのことでした。ついていきたいものの、バーで将来食べて生きたいほど覚悟もない。
ビアガーデンでのバイトで人生が変わった話
どうしよーと思っていた所、求人票でスターホテル横浜※今年6月15日に閉店
『夏の短期バイトで屋上ビアガーデン』
のバイトの求人が有りました!
(あれ、もしかしてA店長と関われるし、夏の短期バイトだから告って振られても後腐れないな、
はたらこ~!)
スターホテル横浜の屋上ビアガーデンで
当時22歳で、同年代の子が大学4年生で進路が決まっている子ばかりのなか、今の妻とバイト先で出会います。
ちなみにわたしのモテキは間違いなく22歳です。
バイトしていた女子はみんな「かきひささん好き♡」て言ってくれたんじゃないすかねー笑
エチケットという事で、脇にシーブリス+Ag+をぬりたぐるという文化を、
習慣化できたのはこの時期。
実質ひも生活が始まる
その後当時の妻と付き合って、
妻がバンド今まで行ってきたバイトに口を出し始めてから、
5年ほど続いていたバンドが解散しました笑
そのあと、妻の高校時代の友人や後輩、
メンバー募集サイト(ナツカシー)でバンドメンバーを組んだものの、
全く気持ちが乗らずに半年で解散。
妻は学生時代に吹奏楽のバンドマスターをしていて、ホルンを担当していました。
青春をホルンにつぎ込んでいた彼女が、生ぬるい感じでやっていたバンドに対して、
まっとうな社会人にならないで、バンド活動をしているのが意味がわかんないとのこと。
ここから22歳~23歳は転落していきます。。。
バンドもなくなり、仕事もやめている僕は、
当時住んでいた彼女の家に寝泊まりをしていました。
仕事もしておらず、お金もないので基本的には実家にいたので、
両親からはブチ切れられています。
まだその時は親に甘えていたので、親の言うことをある程度は聞かないと行けないなという感じでした。
でも彼女はそれにたいして、めちゃくちゃ不満を抱いていました。
彼女は動物関係の専門学校に卒業後、動物の仕事ではしっかりと自立できないという理由で、
看護師の短大に通っています。当時は国試という看護師になるためには勉強を必死に頑張っていてくれて、
見事に受験合格をしていました。
二度と戻りたくない暗黒期と就活
その間に彼女は就職先として、毎日僕に対して、正社員のメールを僕に送りつけていきました。
毎日7~9件ほどです。当時は履歴書を手書きするのが当たり前という時代だったので、
一日中履歴書を書いていました。
『就職先に電話したの?』
『電話・・・あぁしてないよ』
『はぁ!?いままで家で何していたの!?』
『履歴書書いてた』
『何枚書いたの!?』
『誤字しまくって、2枚だけ』
『一日家にいて、それしかやってないの!?ありえない』
今あらためてエピソードを書いていますが、メチャクチャポンコツですね笑
ここから、ポンコツが止まりません笑ドン引きしないで話しを聞いてください。
そんなこんな、波乱が有りましたが、試用期間がある企業に内定が決まりました。
暗黒期は続くよ!コピーライター編
最初の就職先はコピーライターの仕事でした。
ただ、このコピーライターの会社環境がめちゃクチャエグかったです。
11月に入社をしたのですが、暖房はつけないわ、窓は開けているわ。
理由は、【暖かくなると、良いアイデアが生まれない、集中力がなくなる】
そんなはずあるか!って今は思う。
あとは自社ビルで雑居ビルでボロボロです、タバコの灰が至るところに落ちています。
壁はヤニだらけでベタベタ。
静かなオフィスには、40代の肥満体型の上司が、
キャベツダイエットとしょうして、匂いキツめのドレッシングをキャベツにかけて、
ぼりぼりと食べていました。
社長よりも会長(多分60代)の方が来られると、仕事を一切やめて、
会長に向かってお辞儀。
そこまでは、ぎりわかるのですが、数分後に、
『会長あいさつOKでーす!』と内線が流れた瞬間、
三階にある、会長室までノートとペンを持って全力疾走して、
『おはようございまーーーす!!!』と超大きな声で挨拶するという謎の文化
あとつらかったのが、この会社がいわゆる変な商品をいかにして、
コピーライターの文章力で売るという作業だったのですが、
商品がこれ絶対効果あるの??という商品ばかりだったので、
打ち合わせデスクにはクレームの手紙が山程届いていました。
電話に出る際も何故か複数の偽名を使って電話をしているという全く理解ができません。
初めての社会人だったので、
『あぁ・・・これが普通なんだ』
とカキヒサ青年は思っていました。
長く働きたくないけど、せっかく決まったところだし、
土日祝休みだし、お金もらえるから頑張ろう。。。
と思った矢先に、先輩から、
『化粧品のコピー書いて』
と練習で渡されました。
全くやり方も進め方もわからなったので、
成分表を辞書で調べたものをつらつらーと書きました。
なにかがおかしいけど、やり方がわからない。どう聞けばいいのかわからない。
よくわからず提出した所、上司に呼び出され、
『君はこの会社に向いていないから、仕事をやめたほうがいいよ。君自身も辛いだろうし』
『・・・はい、わかりました。あ、でもまだ、定期を買ってしまっていて、まだ2週間なんですけど。。。』
『いいよ、俺が使っていない定期代出してやるよ。』
と財布から2万円を出してくれました。
僕は初めての就職を2週間で半ば自己解雇という形であとをさりました。
暗黒期は続くよ!5分で人となりがわかる!飲食系テレアポ
次に就職したのは、光通信営業系の営業職でした。
事業拡大と評して、いつも人で不足だったので、面接は毎週4~5人ほど担当していました。
当時の上司が言っていたのは、
『俺は人を見る目があるから面接は5分で切り上げる。5分でその人の人格がわかる』
という謎の名言を教えてくれました。いま僕は面接官という立場で、学生の皆さんに対して、偉そう(そんなつもりはないのですが)に面接をしているのですが、5分で人となりが分かるわけがないのは、よくわかります。
販売する商品は、超有名飲食店のサイトを広告を上位にするという営業です。
ただ、この仕事の何が辛いっていうと、飲食店に対してテレアポをしまくるという内容でした。
僕自身、飲食でずっと働いていたので忙しい時のテレアポがいかに鬱陶しいかがわかります。
でも単純に自分のスキルや、これを契約したことによって、お客様がどれだけ喜んでくれるのか、という価値を多分自分の中で見つけられてなかったんだと思います。
一緒に働いている方たちは、同年代の子たちが多く、以前よりもましかぁと思っていた矢先に、
突然訪れる別れ?
彼女から突然別れ話を切り出されてしまい、一度別れてしまいました。
その瞬間、なんのためにこんなに嫌々で働いているんだろう?という目標を失った僕は、
彼女と別れたを言い訳に営業職を3ヶ月で退職しました。
・・・ここまできて思ったのですが、引かないでくださいね笑
ここからちょっとずつ上がってきますから!!
彼女と別れて女々しく生きるのも嫌なので、
彼女とのマイミク(わかり人にだけ伝われ!)を切ったところ、
彼女から連絡がありました。
『なんで削除したの!?』
(あれれーおかしいな。別れたのに、携帯の番号やアドレスもすべて削除したのになぁ)
という状態です。
ここからはなんだかんだあって、また、復縁することになりました。
人生を変えた、ウェディングプランナースクール編
『人と関わることが好きなんだし、ウェディング系いけば?』
ウェディングプランナーのビジネススクールに通いました。
かなり実務的なスクールでした。
妻に商談のロープレをしてもらうくらいに熱心でした。
実際のプロの接客や対応方法はどうするんだろうという気持ちがあったので、
僕と彼女は、週末に開催されているウェディングフェアに何箇所も足を運びました。
最初は結婚式さながらの食事を食べられたり、チャペルの重厚感あふれる音楽に酔いしれたりと楽しでいましたが、
何箇所も通っているうちに、彼女が不満を言って来ました。
【貴重な休みを削って、なんであなたの勉強に付き合わなきゃならないの】
あーたしかに。
そんな不満を持ちながら、ある日葉山の結婚式会場のフェアに参加しました。
その会場が、彼女が結婚式を上げたいと思っているイメージにめちゃくちゃぴったりな会場でした。
また、プランナーさんの対応はじめ、会場にいるスタッフのかたの対応が素晴らしかったです。
『いま、仮契約をしたら数十万円お安くできますよー』
とわかりきった営業トークと彼女を喜ばせたいという気持ちで、
『わかりました。そしたらこの日程で、式場をおさえてください!』
彼女は目がまんまるでした。
このときの僕らの状況は、
・ホテルのほそぼそとしたアルバイトで定職についていない
・両親の顔合わせもしていないし、付き合っていることを伝えていない
・そもそも結婚しようというプロポーズを彼女に伝えていない。
という今結婚を考えているカップルには到底思いつかない状況でした。
一応1年4ヶ月後に設定してだいぶ先出し、まぁなんとかなるだろ!っていう気持ちでした。
そこからはめちゃくちゃ大変でした。
そもそも同棲もしていないし、お互いの両親にご挨拶もしていません。
そこからはもうめちゃくちゃに大変だした。
まず背景として就職活動がうまくいかず面接も落ちている状況です。
面接もバイトをしながら、8社は落ちている状態で自分に自信が持てていない状況でした
2011年2月に、結婚式もできる海が見えるパン屋に就職できました!
3月15日より勤務がはじまります!
それをきっかけに両親のもご挨拶のスケジュールや段取りが一気に彼女から入れられます。
初対面の僕の家の両親と彼女が、まぁまぁ揉めるわ、
両家、初顔合わせの食事会では酔った勢いで彼女のお兄さんから怒られるわ、
父親と彼女がもめるわという状況というとんでもない顔合わせでした。
終盤のタイミングで、父親からあまり話しをしていない僕にたいして、投げかけました。
【で、お前は今後どうしたいんだ?】
という質問にたいして、みんなから注目される中僕が父親に向けて返した言葉は、
【みんなが仲良くなってくれればいい】
と答えました。マジで今でも最低な返答だと思っています笑
そして、バタバタ日々を就労準備をしていた矢先に、日本を震撼させる事件が起こりました
2011年3月11日 東日本大震災発生
当時の僕は彼女と車で出かけており、
ただ、
品川埠頭の一本目のカーブで、焦ってアクセルとブレーキを同時に踏んでしまい、
ドリフトをしたことにより解雇・・・。
もう何をやってもうまくいきません。
そこからはいったん正社員を目指すため、月に9回休めるからという理由だけで、
飲食のバイトに戻りますが、終始立ち仕事に限界を感じたのと、人の入れ替えが激しすぎたという事で、
正社員にはならず、アルバイトのまま一年を過ごします。
本来であれば、正社員で働いていた状態で結婚式を迎えたかったのですが、
結婚式のお金を稼ぐために就活をする時間がありませんでした。
そして、迎えた結婚式
友人や、仲間から家族から心配をされていましたが、ものすごくいい結婚式を挙げられました。
結婚式もあげて、オーストラリアにも新婚旅行にいけて、もうめちゃくちゃ楽しかったです!
日本に帰国をして、またしばらくバイトに明け暮れるある日、妻から妊娠したという報告がありました。
これまでは、最悪バイトでもなんとかなるなるかという状態でしたが、
さすがに子どもが生まれるという状況では、バイトのままじゃまずい。。。
たまたま、バイト先が改修工事をするという期間を利用して、
営業研修兼集団面接をさせてくれるところに行き、営業を学びつつ集団面接を行いました。
仕事を選べる状況ではなかったのですが、人に喜んだ表情を見れるという仕事をしたかったのと、
飲食のアルバイトでは椅子に座れなかったので、時々椅子に座れるという理由で営業職を志望しました。
集団面接では14社中1社から、内定を頂いたので、晴れて正社員になれました!
⑤ 石材店で働く!
その企業は川崎で墓石を90年以上営んでいる地域密着型の会社で、社員数は当時7名でした
檀家様(寺院にお墓を持っている方)とコミュニケーションをとりつつお墓のリフォームの提案を行ったり、ご遺族がなくなられた方の戒名の書体確認、その他四九日の納骨対応を行ったりという業務を行っていました。あとは、新墓地案内を寺院内でさせていただき、新墓地販売を行っていました。
お墓の営業はものすごく好きでした。
お客様の人生に対して深くかかわれているということ、一生に一度ではなく、何世代に一度という非常に大事な役割や、お墓の販売やメンテナンスを通じて、お客様との寄り添えることで、やりがいを感じました。
また、お寺の方のご住職や奥様がお寺の役員さんといった方たちとも信頼関係を築くことができました。
職場の人間関係にめちゃくちゃ恵まれたり、社外教育にも力を入れて頂ける会社だったので、学びの機会を多くいただきました。
この仕事で、営業の経験をめちゃくちゃ積ませて頂きました。ただ押し売りではなく、相手目線に立った対応等を学びました。
入社して3年目で転機が訪れます。
20年以上務めたベテラン営業社員が施工部に急遽部署転換をし、
営業のTOPを任されました。
当時は僕含め営業社員は3名(その内新卒1名)
専務や施工部の皆さんがフォローをしてくれるのですが、営業に関して重要なお仕事を任せて頂く事や、
新規寺院開拓、新会社立ち上げメンバーの方に対しての運用といったことで、多くの方と交流できるようになりました。
ただ、それと同時に自分の力を過信しすぎて、仕事の確認事項がおろそかになったり、慣れからくる雑さが目立ってきており、
徐々に失敗が増えてきた時期でもありました。
営業のTOPを任されてから、8か月後に仕事で大きなミスを行いお客様は元より、お寺のご住職からにも話しが届き、会社と寺院との取引がなくなりかけた出来事があり、僕は営業部から、一度現場を知った方がいいという事で、施工部に異動となりました。
施工部での お仕事は重い機材が多くだいぶ体に応えましたが、やりがいがありました。
ただ、ぼくはその時に会社に対して不利益な事をしたことにより、社長に呼び出されて、解雇通知をされてしまいます。
この時はもう、メチャクチャ泣きました。多分結婚式で泣いたくらいになきました。
状況を受け入れられないのと、これから先どうして行けばいいのか!?というのと、家族になんていえばいいのか!?
内容については伏せさせて頂きます(って書くとなかなかですね)。
解雇通知なので、今までお世話になったお客様や、お寺の関係者の方にはご挨拶をしっかり出来ていません。
会社の方で対応されるという事でした。即時荷物をまとめてやめてほしいという。
何をしでかしたのかと超簡単に言うと、イエローカードが累積されてレッドカードで退場みたいなやつです。
8月のお盆の時期でした。
自宅に帰り妻に報告したら、
【早く仕事さがして!】というまた、求人を探す作業になりました。
送別会に一緒に働いてた社員の方たちが来てくれました。
一緒になって怒ってくれる人もいれば、次行っても頑張れよ!と声をかけてくれていますが、
内心は、【早く仕事を決めないと。送別会なんて行っている暇もない】
と思っています。
同僚から【夏休み貰って、帰ってきたらデスクにカキヒサさんの姿と荷物が無いなんて、意味わかんなすぎるよ】
と泣きながら言われたのは、ものすごいつらかったのと、申し訳なさでいっぱいです。
ただ、実は送別会中に次の会社の内定電話を頂けたので、気持ちに余裕が出てきました。
ドイツの音響メーカーで働く
状況が状況だったので、仕事を選べる立ち位置ではなかったのですが、
たまたま目に止まった求人。
ドイツ法人の音響メーカー。結構有名
紹介会社を通じてということだったので、ダメ元で連絡。
書類選考を通過し1次面接を通過し、2次面接はAPECエリアマネージャーのドイツ人との面談。
当時の英語力でいうと、be動詞の使い分け方法もわからない位英語力皆無。
外国の方と話すのは、新婚旅行以来。
面接当日まさかのドイツ人が体調を崩してしまったため、日本人との面接だけですみ、
まさかの内定。
音響未経験(専門ではギター)だし、英語も話せない。営業経験もBtoC営業と未経験。
よく受かったなぁて思います。
外資系の音響はこれまで自分が大事にしていたことが全く通じないこと、入社してから知ってて当たり前!という状況で、何もかもうまく行かない状況でした。
少人数だったにも関わらず人間関係もうまくコミュニケーションが取れなかったです。
今まで僕が関わってきた人とのコミュニケーション術が通用しなかったんですね。
また、身近な先輩や同期も次々に転職をし、
社長が半年後に変わったりと人事面でジタバタしました。
気がつけば、営業は僕一人という、めちゃくちゃなことになっていました。
正直、商品自体がものすごくいいものなので、何もしなくてもある程度は売上が見えていたので、
いてもいなくても。。。という状態でした。
販売代理店の方と仲良くなっていくという営業スタイルでした。
また、新しく来た社長との考えが全く合わず、ほとんど避けて過ごしていました。
今思えば社長として赴任したのに、営業にいるのが未経験職の営業一人という状況に焦りまくっていたから、強くあたって来たんだと思います。
社外にいる分にはものすごく楽しかったのですが、営業所に戻って仕事をするのが苦痛でした。
その後社長と面談をし、業務改善指導書の話しを淡々とされたことにより、
社員からのバックアップも一切ない状態での指導書は、流石に堪えました。。。
指導書にはサインをせず、次の職を探す日々となりました。
イベント21に入社!
また、完全に別業種に挑むのは大変だし、何よりも笑って仕事をしたいと思っていました。
かといって前職の石材店は、人間関係がものすごく良かったから続いたんだろうなぁ、と思っていました。
そんな矢先、ふと前職の社長のブログ記事を思い出しました。
あまりブログでかつ、名指しで褒めている印象がないなか、めちゃくちゃ覚えている記事が有りました。
ブログを書いていた2015年には、へぇー奈良にそんな会社あるんだ、位にしか思っていなかったのですが、
たまたま見ていた2017年に、神奈川支店ができているとのこと。
神奈川支店のブログを見てみると、立ち上げ当初ということだったので、単純に面白そうというのと、
イベント21が同友会に属していたため、経営理念をおそらくめちゃくちゃに大事にしているから、良い人間関係を築けるんじゃないかなというのと、これまでの経験が無駄にはならないという思いで、面接をしなんとか内定をもらいました。
後日聞いた話しですが、1次面接で中野社長と、前職の社長が電話でやり取りをしたとのことでした。
そんなわけで、僕は結構問題児なんです笑
初めての育児休暇取得
無事に入社をさせてもらい、毎日ドラマのようなできことがある神奈川支店で、
がむしゃらに働いてきました。
1年半あと、二人目の子供を授かったものの、
妻が妊娠に向かない体質のため、動けない状態になりました。
当時の家庭はかなり荒れており、仕事中にも辛いという連絡がいっぱい来ており、
仕事に支障をきたす位僕もメンタルをやられそうになります。
妻との話し合いを行う上で、ほぼ毎日寝たきりの状態で、病院にも入院している状況で、
出産後に子育てができないというかなりまいった状態だったので、
僕は当時神奈川支店長のKさんに相談をしました。
最初はものすごい困惑をしましたが、快く承認をしてもらいました。
当時チームリーダーだった、現神奈川サブセクのNさんに伝えた所、
めちゃくちゃ驚いていましたが、受け入れてくれました。
多分、この経験があったから、いまあらゆることに挑戦が出来ているんだと自信を持って言えます。
よくニュースやネットで、育児休暇を男性が取るとものすごく冷たくされる、
みんなが忙しいのに、何休んでいるんだよ?
という声を聞きますが、
イベント21ではそれを一切僕は感じませんでした。その対応は本当にありがたかったです。
そして、2018年10月19日。
現千葉支店長のFさんと学園祭の設営を行っていました。
朝早くから設営を行い、なんとか設営を追えて、お客様と撤去のスケジュール確認を行っている最中に、
ものすごくたくさん電話が鳴っていることに気づきました。
着信履歴は義母父からの着信。そして妻から陣痛を知らせるメール。
最後に妻から、
『赤ちゃん生まれたよ』
Fさんに事情を伝え、急いで病院に向かいました。
写真をみてもあれっすね。めちゃくちゃ急いで来たんだと当時思います!
この日から、育児休暇をいただくことになりました。
育児休暇の日々はものすごい充実していました。
家族と毎日こんなに一緒に入られる日々というのは初めてでした。
育児休暇は10月19日から約2ヶ月半いただけることになっていました。
その期間というのは、イベント21の中でも最繁忙期でした。
僕の感覚的には忙しい状況ではありますが、同時にこの時期に色々とドラマや面白さがあるので、
繁忙期なのに不在にしている申し訳無さと同時に、面白い出来事に囲まれていてうらやましい、という気持ちもありました。
12月のある日、たまたま妻が接骨院に2時間ほど通うという出来事があったので、
ぼくは思い切って寝ている子供を連れて、ウィンターゲートの会場に車で行きました笑
・・・妻には内緒で。
横浜という慣れ親しんだ場所で大きめの社内イベントが有るのに、何にも関わらていないのは、
やっぱり面白くないよな~という気持ちでいっぱいでした。
行ったタイミングは、リハーサル中でばたばたしていました。
みんな突然やってきた子連れの僕に話しかけてくれました。
そのときに思ったのは、
「あぁ、まだこの会社にちゃんと居場所はある!」
という安心感です!
離れていると忘れ去られていないかなーという気持ちになるので、
育児休暇もありがたいけど、そろそろこの面白い輪の中にいたいなーとも思いました。
育児休暇終えの最初の出来事は、
イベント21名物サミット合宿でした!笑
育休明けには全くふさわしくない戻り方でした。
この育休をきっかけに、イベント21では育休を頂いたという御恩と経験から、。
もし誰かが同じような状況があった場合に、助けられる立場になれるようにしたいという気持ちがでてきました。
神奈川支店拠点長→セールスマネージャへ
これまでの経験から、多くの人に喜んでもらいたいという気持ちと同時に、
多くの人を助けていきたいという気持ちが芽生えてきました。
そのためにはまずは、自分自身が誰よりも背中を見せることが大事なのかと思いました。
これまでに自分の経験をすべての力をマネージャー業務に注ぐ事、
次世代に恩送りしていくことが、これまで助けてもらった皆様への恩返しだと思っています!
これからもよろしくおねがいします!